馬耳風風 (ばじ カザフう)

2016年7月末〜 2018年8月 モスクワ/2018年10月〜 カザフスタンのアスタナ

ドストエフスキーの足跡を辿る②

Привет!

最近スロバキア人の女の子がやって来ました。休み時間に携帯電話でアニメをみて爆笑しているので「何をみてるの?」と聞くと「進撃の巨人」とのこと。しかも日本語音声、スロバキア語字幕だそうです。アニメが好きらしく、私が日本人だと聞いて喜んでいました。私も日本人で良かったよ。スロバキア語はロシア語と似ているので、同じ単語もあったりして少し楽だそうです。やっぱりスロバキア人でも良かったかもしれません。

さて、ロシア人のドストエフスキーが、服役を終えてサンクトペテルブルクに戻って来てからは長編をたくさん発表したところまで前回記事で書きましたね。その中には「虐げられた人々」や「死の家の記録」などシベリア時代の経験が多大な影響を与えた作品もあります。そんな作品を発表しつつも、愛人関係にあった女性と昔から憧れていた欧州旅行に出かけたりしています。

その3年後に妻が病死。ついで最愛の兄を亡くして悲嘆に暮れますが、ヨーロッパで賭け事にハマり、常に常にお金がなかった彼に休んでいる暇はありません。自身の欧州旅行の経験をもとに「賭博者」という作品を口述筆記で書き上げます。それと同時にあの有名な「罪と罰」の連載を書いたアパートがサンクトペテルブルクにありました。 そのアパートには「ここであのドストエフスキーが1864年から1867年まで住んで「罪と罰」を書いてんで」という石標が残っていました。常に火の車だった彼は、時々家賃が払えずにアパートを点々としていたそうです。 このアパートはメトロСадовая(サドーバヤ)駅から1つ運河を渡ったところにあります。近くには「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフのアパートも。

その翌年には小説「賭博者」で口述筆記をしてくれた24歳下のアンナと結婚。そこから二人で4年ほどヨーロッパを回りながら暮らすようになりました。

そして帰国してから住んだ家は、今はドストエフスキー文学記念博物館として展示されています。 半地下にある入り口には、訪れた前日が臨時休館日だったと書いてありました。危ないところでした。予定を詰めすぎてこの日以外来る時間がなかったので、空いていて良かったです。

この博物館があるのは、やっぱりメトロДостоевская(ドストエフスカヤ)駅。 駅から伸びるクズネーチヌィ横丁にあるのですが、博物館の周りの雰囲気もとても素敵でした。 玄関の様子。

モスクワのドストエフスキーの家博物館が冗談だったのかと思うくらい、この博物館は活気があふれていました。チケット売り場のおばあさんも、クロークのおじいさんも、各部屋に立っているおばあさんたちも、みんな親切に話しかけてくれます。そしてこちらが心配にならない程度にお客さんも来るし、やはりドストエフスキーの本拠地はサンクトペテルブルクだと思い知りました。当時の首都ですからね。

この家も外の壁に石標がありました。ここに書いてあるように、この家で彼は最後の大作「カラマーゾフの兄弟」を書きます。…なんでモスクワにカラマーゾフの兄弟を書いた紙とペンがあったんでしょうね。深まる謎。

1877年から構想を始め、晩年の1880年まで連載していた「カラマーゾフの兄弟」は、当初二部作の予定でしたが、一作目を書きあげた80日後にドストエフスキーは病気のために書斎で急逝してしまいます。それがこの部屋。 右にある時計は彼の亡くなった時間で止まっていると言われているそうです。 子供部屋などもあり、ヨーロッパ旅行から帰ってきてからは賭博をやめ、子供達と楽しく過ごした部屋をみて回れます。

また、部屋の展示が終わると、彼の写真や自筆の原稿など資料を集めた資料部屋もあります。ここで彼と関係のあった人々の写真とともに彼が歩んできた人生を知ることができました。 突然モダンな感じでびっくりしました。

おみやげ物屋さんもちゃんとあり、モスクワとの差が歴然としていました。ここでドストエフスキーのサインが入ったボールペンを買い求めるミーハーな私。今必死で「カラマーゾフの兄弟」を読んでいますが本当に面白いです。いくつか訳本があるので、興味がある方は見比べてみて、読みやすい本で読んでみてくださいね。

ある人の人生をたどっていくのがこんなに面白いとは思いませんでした。今度サンクトペテルブルクに行った時はドストエフスキーのお墓と、他の作家の家にも行ってみたいです。

Пока!

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