馬耳風風 (ばじ カザフう)

2016年7月末〜 2018年8月 モスクワ/2018年10月〜 カザフスタンのアスタナ

アヤソフィア

Привет!

いよいよアヤソフィアへやってきました。 先に地下宮殿へ行っていたからか、チケットを買うまでに長蛇の列ができていました。ただ偶然にも前後に並んでいた人がロシア語を話していたので、話しかけようか逡巡しているうちにチケット売り場まで辿り着いてしまいました。ロシア人にとってトルコは人気のバカンス先です。

最近、観光地に行くとちゃんと知りたくて音声ガイドを借りることが多くなったのですが、ここでは日本語の音声ガイドがありました。 2人で聞くために、渡されたヘッドホンではなくて持参したイヤホンをつけると音が小さすぎてよく聞こえません。そしてしばらくは指示された番号を入れて大人しく聞いていたのですが、途中から様子がおかしくなってきました。なんとロシア語が流れ始めたのです。上の写真は日本語でテーマが表示されていますが、実は流れているのがロシア語です。そして最後の方は英語になりました。…なんだこの機械。

アヤソフィアというのはトルコ語読みです。もともと、かつてこの地が「コンスタンチノープル」と呼ばれていたビザンツ(東ローマ)帝国時代に、キリスト教の大聖堂として作られました。別名の「ハギアソフィア」というのは、ギリシャ語読みです。正教の大聖堂として使われていた時は、もちろん4方に立っている尖塔(ミナレット)は存在していませんでした。

このハギアソフィアを建てたのは、先日の地下宮殿を作ったユスティニアヌス皇帝。なんと537年です。よくこんな大きなものを作ったな…。そして1453年5月29日、時の皇帝コンスタンティヌス11世率いるビザンツ帝国は、オスマン帝国によって滅ぼされてしまいます。オスマン帝国はイスラム王朝だったので、イスタンブールにあった聖堂をほとんどイスラム寺院に作り変えました。

明治時代のイスタンブールを舞台にした小説『村田エフェンディ滞土録』では、そんなビザンツの末裔であると主張するある登場人物によってこんな説明がなされています。

-君はこの、丸屋根に尖塔のある建築様式を回教(イスラム教)に独特のものだと思うだろう。
(中略)
これはビザンツ様式の教会建築なのだ。元々は正教の教会を、征服後に彼らが回教寺院に作り変え、そしてその建築様式をそのまま模倣して自分たちのものとしていったのだ。それが結局回教寺院のスタイルになってしまった。

征服した場所の宗教が違った時に、もともとの宗教施設を壊さなかったのはオスマン帝国の皇帝、メフメト2世の英断だったと思います。あるいはただ一から寺院を作る手間を省いただけかもしれませんが。いずれにせよ、この判断のおかげで後世の一観光客である私は、偶像崇拝が禁止されているイスラム教寺院の壁に残された聖母子像が見られるので、感謝しかありません。

右上に聖母子像が、真ん中に見えているのがイスラム教の預言者ムハンマドの名前が書かれた円盤です。この円盤はメインのドームに均等に掲げられており、他には歴代カリフの名前やアッラーの名前が書かれています。

これまで正教の聖堂やイスラム教のモスクにはいくつか入ってきましたが、そのどれとも違う雰囲気で、思わず上を向いて見とれてしまいます。しかしドームの真ん中に立った時にふとさっき引用した本のフレーズが浮かんできました。そして、滅ぼされたビザンツの人たちはどう思ったのだろう、と考えてしまいました。これまで心の拠り所にしていた場所が壊されなくて嬉しかったのか。それとも見せしめのように残されて、上から異教の文字を書かれることに屈辱を感じたのか。私自身は特定の宗教の敬虔な信者ではありませんし、今となってはかつての人々の気持ちも聞くことができないので真意はわかりません。ただ、どこか寂しいような、でも「文化の融合」として見られて嬉しいような、複雑な感情になってしまいました。

こんな通路を通って二階にも上がれます。二階には正教会時代のモザイク画が多数残されていました。これまで見た征服された聖堂は大抵モザイク画の顔の部分だけ消されたり壊されたりしていましたが、ここはきちんと残っています。

修復したのだと思いますが、かなり保存状態が良かったです。音声ガイドをちゃんと聞かなかったことが悔やまれます。ここだけではなく、これくらい保存状態がいいモザイク画がたくさん残っており、中にはビザンツ最後の皇帝、コンスタンティヌス9世の顔もあるとか。

他の部分の天井や壁はイスラム教らしい幾何学模様が描かれており、これもとても素敵です。 また二階から見ると、アヤソフィアのメインホールが客観的に見られるのでおススメです。今はドームが傾き始めたので一部改装中になっており、足場が組まれていますが、ほとんどの部分は問題なく見られました。

また、一階のある柱(通称:マリアの手形)には地下宮殿にもあったような親指1本分の穴が開いており、同じ言い伝えがあります。ここはみなさん列を作って柱に触れていました。

イスタンブールという街の地理的なユニークさ、立地の良さにさまざまな国が惹かれ、時代ごとに支配者が変わってきました。この歴史に翻弄された街の生き証人であるアヤソフィア。ここに一歩足を踏み入れると、大国の勃興と成熟、そして退廃の記憶に触れられます。この地で生きてきた人々と、その支配者たちに思いを馳せながら、ゆっくりと歩いて回りました。