モスクワ奮闘記

2016年7月末にモスクワに引っ越してきました。

ゴールキー・レーニンスキエ②

Привет!

この前ご紹介したメトロWi-Fiで出てくる文字が、この2日ほど世界の有名人が言った春についての一言になっています。これは「もう春だね」と言いたいのか、それとも「もうすぐ春が来るの楽しみだね」と言いたいのか分かりませんが、雪が道に残っているうちはまだ春に片足入れただけだと私は思っています。花が咲かないかなあ。

さて、前回の続きです。いよいよレーニンが滞在していた屋敷へ潜入! その前の博物館で写真の撮影券を購入しなかったことを後悔したので、ここで購入。撮影券はこの公園の建物すべてで共通なので、撮りたいなら早めの購入をお勧めします。

こちらの方は前と違って「お屋敷」という感じでした。ここはもともとモスクワの貴族の別荘として色々な人の手に渡りましたが、1905年ごろに大富豪のサッバ・モロゾフさんが所有していました。彼が亡くなったあとは奥さんのジナイーダ・モロゾワさんが相続することに。彼女はそのあと建築家と恋人になったので彼に屋敷の改装をしてもらい、今見る形になったそうです。 メインの屋敷にある「緑の広間」。外は真冬だというのにここは青々としていました。かなり広い部屋で、ここで壁に映画を映して鑑賞したそうです。

1917年のロシア革命を成し遂げたあと、レーニンは主にモスクワのクレムリンで政治を行っていましたが、翌年夏に暗殺未遂に合います。肩と肺に命中した銃弾は取り除けなかったので、この時から急激に体調が悪くなりました。それでもなんとか働き続けましたが、ついに4年後、脳虚血の発作を起こし、右半身が麻痺。全く手が使えなくなったので療養することになりました。この別荘が選ばれたのは、なんと言っても電話があったからだそうです。この時代、まだまだ高価だった電話ですが、大富豪の妻でこの別荘の持ち主だったモロゾワ夫人はその珍しさからヨーロッパより電話を取り寄せていたのです。モスクワ郊外にあって、クレムリンにも電話ですぐ指示が飛ばせる場所…となるとこのゴールキーでした。 こちらが件の電話。当時の電話はかなり聞き取りにくかったけどね、とガイドさんは言っていました。

二階に上がると男女で分かれている浴室や、書斎と寝室が繋がっている部屋を見ながら奥に進みます。二階奥の角にある小さな部屋がレーニンが亡くなった部屋です。1923年1月20日、発作を起こして 翌日にそのまま亡くなりました。この部屋のベッド脇にはレーニンのデスマスクが置かれています。 そしてレーニンの亡くなった時間で止まっている時計。

また、この屋敷のそばには大きな車庫があり、警備員さんにガイドさんが声をかけて中を見せてくれました。1922年にイギリスのロールロイス社がレーニン用に作った車が置かれています。タイヤは冬の雪の上でも走れるようになっていました。

ここから入り口にあった博物館まで戻ります。途中にあったホテルの一階のカフェで「ランチセット」を頼んだらまさかの「そこに並んでいるビュッフェから決められたメニューを自分でよそってください」形式でした。量は自分で決めていいの?ちなみに299pでしたが、300pをレジで渡しても1pのお釣りは返ってきませんでした。別にいいけど…。

これが博物館の入り口です。立派。本当は公園の奥に「クレムリンにあったレーニンの執務室」の展示があったのですが、今はそこが改装中ということでこの博物館に一時的に移動してきています。

ここではまた別のガイドさんが説明してくれました。結構早口でずっと話されていたので、多分案内するのが好きなんだろうなあ。 スターリン時代はクレムリンの中でもずっと扉が閉ざされていたそうですが、ペレストロイカの後に公開され、この別荘に移されたそうです。レーニンは家庭環境もあって9カ国も話せたそうで、本棚には中国語についての本までありました。赤い机の上に置いてあるものはすべて他の国のトップからレーニンに贈られたもの。左端に見える地図はコーカサス地方のものです。ジョージアとの問題もあったので、彼にとってコーカサス地方の地理は重要でした。ちなみに地図には、それぞれの土地に住んでいる民族名が書かれています。この展示は本当に一部屋だけなのですが、ここで気がつけば30分くらい話を聞いていました。

この大きな国にあれだけ大きな影響を与えたレーニンですが、この別荘に来ると彼も1人の人間だったのかと少し安心しました。そして少し諸行無常を感じて切なくもなります。モスクワの街中からは少し遠いですが、もし時間と興味があれば是非。

Пока!

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