馬耳風風 (ばじ カザフう)

2016年7月末〜 2018年8月 モスクワ/2018年10月〜 カザフスタンのアスタナ

レギスタン広場

Привет!

学校で色々な人から「ウズベキスタンどうやった?」と聞かれては「素晴らしかったから絶対行ったほうがいい」と宣伝しているみっきーです。こんにちは。

さて、いよいよ今日はレギスタン広場へ行きます。アムール・ティムール廟から歩いて10分ほどであの広場が一望できるところに来ました。 雲ひとつない青い空でした。どこの神様か分からないけれど晴れさせてくれてありがとう!

「砂の地」を意味するレギスタンという名前は、これまたいくつかの説がありますが、チンギス・ハンがこの地を征服した時にここを渇水状態にしてしまい、それにともなって砂がどんどん出てきたという話を聞きました。この国では本当にチンギス・ハンは悪者です。モンゴルに行った時は彼はスーパーヒーローのように感じましたが、当然ながら立場が変わるとこんなにも扱いが変わるのか、と興味深かったです。

さて、この国でのスーパーヒーローともいうべきティムールの時代はこの広場は全く違った景色でした。当時の首都、サマルカンドの中心地ということは、シルクロードの中心地でもあったのです(厳密にはちょうど真ん中ではないらしいですが、ウズベキスタン人にとってはシルクロードの中心地です、とガイドのNさんが笑って言っていました)。

かつてはサマルカンドの街を囲むように壁があり、その壁にはいくつか門が作られていて、他の都市からサマルカンドに向けて道が伸びていたそうです。それらの道が交差するのがここ、レギスタン広場。ビビハニムモスクからレギスタン広場に続く道が「タシケント通り」という名前なのも、その道をずっと行けば昔はタシケントへ着いたのだとか。そんなシルクロードの中心地であるレギスタン広場には、もちろん世界中から行商人が集まります。ティムールの時代にはここに屋根付きの大きなバザールが建てられていて、経済、文化、行政の中心として賑わっていました。

そしてティムールの孫の天文学者ウルグベク時代(1420年)に、メドレセ(神学校)を建てます。それが向かって左のウルグベク・メドレセです。その200年後、向かって右のシェルドル・メドレセが建てられました。 これはウルグベク・メドレセを真似して作った物なので、構造が全く一緒になっています。違うのは入り口上部の絵です。イスラム教は偶像崇拝を禁じていますが、ここには鹿を追いかけているトラ…じゃなかったライオンの絵が描かれており、時の権力者があえて力を誇示するために描かせたそうです。そもそも名前のシェルドルというのが「ライオンが描かれた」という意味なのです。そして鹿はここで学ぶ学生を、ライオンは教師を表しているとも、知識を表しているとも言われています。学生はずっと先生か知識に追われているんですね。ちなみにライオンが背負っているのは太陽です。

中はこんな風にお土産物屋さんになっていました。そもそも「メドレセ」の中は各学生の部屋がお土産物屋さんになっています。別にタシケントだけじゃありませんでした。

ここのタイル模様が珍しいのは入り口の絵だけに限らず、中もです。 草花やつたの細かい模様が描かれいるのです。この砂漠において、こんなに美しい植物の模様を描くという発想が面白いと思いました。

そして二つのメドレセの間、つまり広場の正面に見えているのがティラカリ・メドレセ。 こちらはシェルドル・メドレセの20年後(1660年)に建てられました。これでやっと今の広場が完成です。

ティラカリというのは「金箔の」という意味ですが、外観からはその理由が分かりません。中に入ると他のメドレセとは違って一階建ての部屋に囲まれた広場に出ますが、その左側にある礼拝所に入ると、名前の由来を見ることができます。 入った時はで人がおらず、電気が消されていたので、真っ暗で分かりませんでした。しかし人に頼んで明かりをつけてもらうと、下から順番にぼんやりと明るくなってきます。そしてその全貌が目の前に現れた時は、思わず息を呑みました。

ここも3キロほどの金が使われているそうです。

天井まで葉っぱの模様が金箔で描かれています。

この本堂を堪能すると、横に広がっている建物の中を少し見て回りました。お土産物やさんももちろんありますが(楽器なども置いてありました)、何より修復時の写真が飾ってあったのが興味深かったです。私がもしこの朽ちたメドレセを発見しても修復しようとは思えないだろうな、というくらい酷い状態でした。こんなに美しいものを見せてくれて本当に作業をした人たち一人一人に感謝を伝えたくなります。

ウルグベク・メドレセについての詳しい説明は次回に。

Пока!

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