モスクワ奮闘記

2016年7月末にモスクワに引っ越してきました。

レニングラード包囲と防衛博物館

Привет!

この5日ほど友人が日本から遊びに来てくれ、モスクワを歩き回っていました。新しくオープンしたスポットなどにも行ったのですが、とりあえずサンクトペテルブルクの話を書き終えてしまおうと思います。

弟のサンクトペテルブルクでの予定はロシアの歴史を順に追っていくスタイルだったようで、ピョートル大帝がこの街を作る足掛けにしたペトロパブロフスク要塞から始まったこの旅の最終日はレニングラード包囲と防衛博物館に行きました。 ピョートル大帝の夏の庭園にほとんど隣接したこの博物館のテーマはその名の通りレニングラード包囲戦です。ロシア(当時はソ連)にとって第二次世界大戦は対ドイツ(ファシズム)戦争という意味を持ちます。その中でも一般人を巻き込んだ、特に悲惨な戦いがありました。1941年9月から約900日間もの間、レニングラード(現サンクトペテルブルク)がドイツ軍によって完全に包囲されたのです。 ドイツ軍の侵攻は早かったので、疎開する余裕もなく、市民300万人が取り残されました。写真の緑の部分が封鎖されたところです。フィンランド湾とラドガ湖に囲まれたこの地で、陸路も水路も閉ざされると食料が入って来ません。人々はわずか125gのパン(それも純粋に小麦粉だけではなく、色々な屑を混ぜて作られたそうです)をもらうために配給券をもって並びました。 当時使われていた重さを図る道具と配給券(奥に貼ってあるもの)です。手前にあるのが125gの黒パン。

もちろんこれだけでは足りるはずもなく、人々はベルトや動物なども食べ、ついには人肉も食べたと言われます。流石にこのあたりのはっきりとした展示はありませんでしたが、当時の教室を再現したスペースに貼られていた子供の書いた絵が当時の惨状を物語っていました。また、病院を再現したコーナーもあり、そこにはやせ細った子供が診察を受けている写真もありました。

武器を作る工場の電力を優先したため、街中では電気が止められました。 部屋は常に薄暗く、夜になると暗闇です。そこに迫り来るナポレオンをも撃退した冬将軍。しかもモスクワより北なので寒さも尋常ではありません。人々は飢えと寒さで倒れていきました。ただ、冬になるとラドガ湖が凍ります。そこに鉄道が作られ、物資の支給と人々の避難に大いに役立ちました。しかし、常にドイツ軍に攻撃されるため、安全ではありません。この鉄道は「命の道」とも「死の道」とも呼ばれるようになりました。

そんな中、作曲家ショスタコーヴィッチが「レニングラード交響曲」を作り、民衆を鼓舞するために演奏をします。 その時のポスターも貼られていました。

1943年1月にはイスクラ作戦によりレニングラードへの陸路が確保され、翌年1月にはソ連軍が完全にドイツ軍を負かし、包囲が解かれます。その時に使われた武器や軍服、模型なども多く展示されていました。

この900日の間に亡くなった数は60万とも、80万とも、100万とも言われています。画家のビリービンもこの時に亡くなりました。この展示室に入る前に、当時の街の様子が描かれた絵がたくさん飾ってあり、その横に様々な人々の日記や記録から引用された文が書かれているホールがありました。

綺麗な街、だけではない様々な歴史に翻弄されたサンクトペテルブルク。ロシアに来て良かったと思うのは、日本にいるとあまり見えてこない、別の視点から歴史を見ることができる時です。誰が悪い、誰が良い、だけではなく、何が起きたのかきちんと見ることが大事なのだと思いました。

久々の更新が重くてすみません。
Пока!

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