馬耳風風 (ばじ カザフう)

2016年7月末〜 2018年8月 モスクワ/2018年10月〜 カザフスタンのアスタナ

革命の暗号展・続き

Привет!

今学校では科学をテーマにロシア語を勉強しているのですが、その中で「アインシュタインは『私たち』という言葉を使いたがらなかった」という話を聞きました。すると先生が「ちなみに人前で自分一人のことを『私たち』と呼んだら、ニコライ2世か、って突っ込むのよ」と言ったのです。これはこの前の展示でよく見かけた勅令に書いてあった「私たち、ニコライ二世は」という文言ではありませんか。先生曰く皇帝で「私たち」という言葉を使っていたのが彼だけだったからだそうです。

そんな皇帝ニコライ二世が二月革命によって退位させられた後のロシアについて今日は書こうと思います。 「おおきなかぶ」がロシアのお話だと最近知ったのですが、あのお話になぞらえて帝政打倒を描いた当時の漫画。

こうやって革命を成功させた臨時政府でしたが、彼らはドイツを敵として第一次世界大戦を続けることを決定します。もう戦争が嫌になっていた民衆や兵士は社会革命党(エス・エル)が指導権を握るソビエト(ロシア語で「会議」を意味する言葉で、権力機関のこと)に集まりました。この時点で臨時政府とソビエトの二重権力状態になっています。そこへ1917年4月、臨時政府に捕まらないようにスイスへ亡命していたかのレーニンが密かに帰国し、全ての権力はソビエトに移すべきだという四月テーゼを発表。戦争の中で国中が混乱に陥ったまま、10月に入って臨時政府に対する蜂起を準備し始めました。

そして10月25日(今の日付では11月8日)、第2回全国ソビエト大会に合わせて蜂起します。ところがこの前に軍の各部隊がソビエトに支持することを表明していたので、臨時政府のあったサンクト=ペテルブルクのエルミタージュ冬宮に部隊が侵入しますが、抵抗はなくほとんど無血開城になります。当時の臨時政府の実権を握っていたケレンスキーは国外逃亡。これが10月革命です。その後直ちにソビエト大会が権力の掌握を宣言、レーニンを議長とする人民委員会議を設立して世界初の社会主義権力が誕生しました。

モスクワでも軍がクレムリンに攻撃し、その写真も飾ってあります。 ちなみに、この横に「革命における人と人格」という説明が書いてありました。 「革命のシンボルは人民(この場においては労働者と農民)でした。この人民の力というものを彼らの代表たるエリート層は恐れていました。しかし一方で、知的階級の人たちは、人民が『将来的にためになること』を到底理解できない、と思いがちです。また彼らは歴史において『革命』は英雄的なものだと捉えていました。革命を起こすためには人民の力を自分たちに集中させねばなりません。そんな状況において、倫理観とカリスマ性は最も重要な役割を果たします。レーニンは『私たちに革命を起こす力をください-そうすればロシアをひっくり返します』と言ったと残っています」人々が生活が全く変わるのだと思ったのも無理はありません。

ちょうど革命の直後の新聞記事の見出しもまとめられていて面白かったです。 10月27日の記事は「ソビエト革命政府、こんにちは!労働者、兵士、農民、全員がこの人民の権力のもとでは一人の人間です(プラブダ新聞)」これが革命2日後に出たとは、本当に行動が早かったようです。

革命後、新しい社会システムを浸透させるには、前時代の全てを否定しなければならなかった、という説明もありました。プロパガンダがたくさん作られます。 宗教は弾圧され、身分制は廃止、結果的に良かったとも悪かったとも言えますが、こうせざるを得なかった、というのはひしひしと伝わってきました。この展示の初めに書いてあった「他の方法はなかったのか」と質問に対しては見ていくうちに「やりすぎな気がするけど、これ以外は無理だろう」という私なりの答えは出たと思います。日露戦争と第一次世界大戦という2つの戦争がこの国の運命を決めてしまったのだなあ、としみじみと思いました。

なかなか有意義なこの展示は11月17日までです。

Пока!

にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
にほんブログ村

1917年革命の暗号展

Привет!

クラスメイトのイタリア人が「女性は全て素晴らしい」と堂々と言っていて、モスクワでは稀に見るステレオタイプのイタリア人だなと思っていたら、本人もそういう台詞の後に「ほら僕ってイタリア人だから」というようになりました。話している分には面白いです。

さて、昨日の続きです。今回の目的であった10月革命の展示。 1917 год(年)だと思っていたらкод(暗号)でした。革命の暗号。なかなか興味を引く名前が付いています。写真は入り口ですが、ここにこの展示の意味が書かれていました。「1917年の革命という、人類の歴史において重要な事件を様々な資料-当時の書類や新聞記事、芸術、武器に軍服など-から読み解き、この事件を時系列に並べ治すだけではなく、新たな解釈を見つけるものである。どうして革命が起こったのか?他にいい方法はなかったのか?人民がこの事件で担った役割は?そして現代社会がここから学ぶことは?」

さあ入ってみましょう。早速ロマノフ王家の紋章が天井から釣られています。 本当に情報量が多くて、わずか2フロアの展示なのに1時間以上かかってみました。重要な説明には入り口のようにロシア語だけでなく、英語でも書かれています。現地で大体の内容はつかみましたが、家に帰ってからゆっくり読みたかったので携帯のカメラに1つ1つ収めると、カメラロールがその日のところだけ真っ赤になってしまいました。展示室の壁は白かったのに、なぜか会場が赤かったイメージがあります。

展示自体は、日露戦争から始まります。 1904年、革命の13年前に始まった日露戦争でのロシアの大敗が、もともと各地で沸き起こっていた帝政への国民の不満をより決定的なものにしたのです。農奴解放されたとはいえ、一向に生活は良くならない。美味しいところを味わっているのは貴族だけだ。そこに日露戦争です。皇帝へ戦争中止を訴えて静かにデモ行進をした労働者と家族10万人へ向けて、軍が発砲したのがかの有名な「血の日曜日事件」でした。半年後には日本が勝って終戦。帝政打倒へと国民感情が動くのは仕方がなかったのだと思います。日本がここで勝っていなければ、もしくは…と一瞬考えてしまいましたが、歴史に「もし」はありません。

当時の証券なども展示してありました。

こうした流れを変えようと、皇帝ニコライ二世は国会(дума:ドゥーマ)と憲法制定を発表します。そのお知らせの紙をはじめ、様々な勅令の紙が展示されていたのですが、1番大きく書かれているのは「我々、ニコライ二世は」という一文で、具体的な内容についてはちゃんと読まないとわからないようになっていました。皇帝の名前を大きく出すことによって民衆に存在感をアピールしたかったように感じられましたが、度を過ぎていたのかもしれません。全て皇帝が勝手なように決めているように見えました。実際、国会ができても皇帝が気に入らなければすぐ解散、短命なことが多かったようです。首相に就任したストルイピンも貴族や地主に優位なように法を決めて暗殺されていますし、反発した労働者たちによるストライキも後をたちませんでした。

そんな20世紀初め頃、マルクス主義が大流行します。 マルクスコーナー。ここまでの流れをみると資本を社会の共有財産としよう、階級をなくして一人一人が自由に発展しようとする、マルクスの考え方が受け入れられたのは無理がないことのように思われます。

1914年には第一次世界大戦が勃発。皇帝は民衆の目を国内の問題から戦争へ向けようとし、国民は戦争特需を願い、誰もがすぐ終わる戦争だと信じていましたが、いろんな国が参加したこの戦争はご存知のように4年半も続くことになります。ロシア経済は低迷、国民はまたも戦争に嫌気がさし、国会も口を出してくる皇帝に不満が出てきます。1916年12月には皇帝に取り入って大きな顔をしていたラスプーチンが暗殺されました。

王家の紋章が捕まっている絵や「自由なロシア」という歌の歌詞と楽譜が展示されていました。強い反発が伺えます。

1917年3月1日(当時のロシアが使っていたユリウス暦では2月16日)、国会から臨時政府が誕生。3日(18日)には皇帝に退位を要求し、他の王位継承者もいなかった(実際には脅されて誰もつかなかったそうです)ため、この日にロマノフ王朝300年の歴史は幕を閉じました。これが2月革命。

展示室には日露戦争から時系列に出来事が書かれており、初めの方は「1905年に起こったこと」という感じだったのですが、1917年に入ると「1月に起こったこと」「2月に起こったこと」と細かく書かれていました。まさに激動の時代です。ここからどのように10月革命が起きたかは、次回。

Пока!

にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
にほんブログ村

ロシア現代史博物館

Привет!

先週末、久しぶりに晴れたので旦那と散歩に行って来ました。ロシア人はよく「ちょっと散歩しようよ」と言って目的もなく(何時間も)歩きますが、私たちは「あそこへ行こう、ちょっと遠回りして」という感じで散歩をします。今回の目的地はロシア現代史博物館でした。

母や弟が日本から来てくれ、色々と案内しながらロシアの歴史を勉強するうちに、私が興味を持ったのは1917年に起きたロシア革命でした。中でも革命の流れというより、王制から突然社会主義になって、市井の人々はどのように感じたのだろうか、混乱しなかったのだろうか、ということがとても気になるのです。ロマノフ朝の首都はサンクトペテルブルクなので、モスクワで分かることは少ないかもしれないと思いましたが、奇しくも今年は2017年。ロシア革命から100年です。

様々な博物館、美術館でこの革命に関する特別展示が行われていますが、とりあえずは一番内容が近そうなこの現代史博物館へ行ってみることにしました。 門をくぐって真っ先に目に入るのは10月革命でクレムリンに向かって使われた砲台。そして博物館垂れ幕には特別展の案内があります-「1917 革命の暗号 2017」。ビンゴです。

その特別展の紹介は次の記事に回して、今日はこの博物館について書こうとおもいます。学生は100p、大人は250pで入れました。地球の歩き方には特別展別料金って書いてあったんだけどな…そんな案内どこにもないなあ。 窓から見える中庭が綺麗です。

入ったところにはこの建物の歴史が書かれていました。まず1770年代に建てられた後、1831年から1917年までは「イギリスクラブ」として貴族の社交場になります。その時代の有名人、プーシキンやトルストイも利用したそうです(プーシキンは1837年に亡くなっているので、本当に初めの方に使っていたんですね)。
1917年の2月革命の後は「革命博物館」として、1922年には「赤いモスクワ」展示会が、1924年には「17世紀以降のロシアと10月革命博物館」ができました。戦争中は「1918-1942年の労働者と農民 」博物館に、戦後に「経済と科学、文化」博物館になりました。そして1991年のソ連崩壊後に今の現代史博物館としてオープンしました。なんとも歴史に翻弄された、数奇な運命をたどっています。

そんな博物館の歴史コーナーを抜けると、分かれ道になっていました。上へ行けば特別展、横へ進めば常設展。特別展は1917年の革命についてだとわかっていたので、とりあえず常設展へ進みます。

…ペレストロイカから始まりました。
おかしいな、地球の歩き方には「ソ連に関する展示だけであったが、現代は革命前の帝政時代の展示やソ連崩壊後の展示も増えている」とあったのに。これやったらソ連の終わりかけからしかありません。 めっちゃ現代…。

当時の新聞記事を始め、おもちゃや壁の落書き、宗教が弾圧されていたソ連時代が終わった後に普及し始めたイコン画など様々な実物と共に写真でソ連崩壊までの流れと現代のロシアの豊かさと可能性についての展示が続きます。

足元には「ここから○○年」など一年ごとに書かれていてわかりやすく、展示の仕方も面白かったです。要所要所に置いてある端末で現代史を勉強している旦那と一緒にクイズに答えたりしていました。

いつも書いている気がしますが、博物館の展示の仕方は面白いんだから順序をもっとはっきりさせて欲しいです。しかし、クイズの端末を適当に操作していたら地図が出てきたのですが、それによるともっと博物館自体が広い気がします…。私たちが行けていないところがあるかもしれません。また時間のある時にもう一度行ってみようと思います。赤の広場からトベルスカヤ通りを登って行き、プーシキンスカヤ駅を少し通り過ぎたところという、モスクワ中心部にあるのでアクセスも良かったです。

絵で分かるロシアの成長ぶり。 時代が前後してややこしくなってきましたが、次回はお目当の革命についてです。

Пока!

にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
にほんブログ村

グルジアフェス

Привет!

昨日書いたエレベーターに閉じ込められた話を今日の授業中に話すと、これまで様々な国で暮らしてきたあるクラスメイトから「南アフリカではエレベーターのワイヤーが切れてよく落ちるんだ。そうならなくて本当によかった」と真顔で言われてしまいました。閉じ込められただけの私はかなりラッキーだったようです。30分だけ、というのも他の人からすると「なんだそれくらいか」という反応でした。みんなどんな人生送ってるの…?

この間の土曜日、友人に誘われてグルジア(ジョージア)フェスティバルに行ってきました(今回の記事では「グルジア」と書きます)! 場所はエルミタージュ公園。初めて見に行ったバレエ、白鳥の湖を上演していた「ノーバヤ・オペラ」という劇場がある公園です。

このイベントに誘われた時に、イベントの情報がたくさん載っているいいサイトを教えてもらいました。Kuda Moscowというところで、kudaはロシア語で「どこへ」という意味(キリル文字表記はкуда)。イベントだけではなく、レストランや映画の情報などもみれます。今週末どこに行こうかなーとモスクワでお考えの皆さんにはオススメです。

会場に着いたら入り口に身体検査があり、ゲートの横には水などのペットボトルが高く積まれていました。あ、持って入っちゃあかんのか。私もペットボトルを持って行っていたので、カバンの中を見せた時に怒られるかなーと思っていたら「行っていいよー」と言われました。なんでや。ラッキーだと思うことにします。

入り口脇のテントには早速人だかりができています。何をやっているのか覗いたところ、 グルジアの伝統ダンス。女性の衣装が可愛いです。男性は膝を曲げて高く飛び、ブレイクダンスのようにくるくる周り、女性は本当に優雅に踊っていました。 すぐあとにダンス講座が始まり、みんな楽しそうに踊ります。私も行こうかと一瞬思いましたが、人が多すぎてステージに立てそうになかったので諦めました。ロシア人も結構こういうの好きなんだなあと思います。

この後もフードコートなどでそれはもうたくさん人々が踊っているところを見たのですが、グルジアの人々はダンスが好きだそうで、いたるところで音楽が流れ、フェスティバルに来ていた一般のお客さんだと思った人が踊り始めたり、その人を中心に人々が円になって作った即席ステージに、近くのお店の人が飛び入り参加したり、見ていた観客が周りから推薦されて踊り始めたり、とても楽しかったです。しかもみんな打ち合わせしたかのように音楽に合わせて綺麗に踊ります。ああ、グルジアへ行きたい!

他にも子供達が一生懸命ぶどうを踏み潰しているコーナーがありました。 グルジアといえばワインが有名なので、ワインを作ってるの?と聞くと「ジュースだよ!」とのこと。横ではこれで作られたジュースをペットボトルに入れて250p(500円)で売っていましたが、色があまりにも茶色なので買うのは控えました。ちなみにグルジアの国花はぶどうの花だそうです。

旦那は友達にある飲み物を差し出されて「飲んでみて」と言われていました。飲んだ瞬間「うわあ」という彼。ウォッカのような感覚だったそうです。笑いながら言う友達によると「チャチャ」というぶどうから作ったウォッカのようなもので、アルコールはウォッカと同じ40度あります。なんとここには こんなヒンカリ型の入れ物に入ったチャチャもお土産として売られていました。

もちろん、ヒンカリをはじめとしたグルジア料理もいただきました。ヒンカリナヤなど色々なグルジアレストランが屋台を出していて、ハチャプリ(焼きたては難しいので、アジャリア風ではなくチーズハチャプリが多かったです)や、シャシリクなど、どのお店にも置いてありました。中でも面白かったのは、ヒンカリの実演販売。 左奥にある皮を一枚手に取ったかと思えば、銀の箱に入っているタネを乗せると、くるくると巻いていき、1つ完成。みるみるうちにヒンカリができていくので、見ていて気持ちよかったです。旦那と二人で買って食べようとかじりついた瞬間、中の汁がこぼれてしまいました。すると横にいた見知らぬおばちゃん二人組に「その食べ方間違っているよ」と言われます。「知ってるけど、こうなっちゃった」と弁解しながらも、こんな交流が楽しめるのもイベントの醍醐味だよな、と思いながら、楽しい夜を過ごしました。

Пока!

にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
にほんブログ村

エレベーター

Привет!

今日も秋晴れが続いています!が、天気予報を見ると明日から陰鬱とした曇りが続くようなので、今日のうちにビタミンDをチャージしておこうと思います。ついでに気温も二桁になるのは今日が最後…。ロシアの人に「秋の始まりだね!」と言われました。なるほどな。2度目の冬、去年よりも楽しめるようにがんばります。

さて、うちのマンションにはエレベーターが二つ付いています。荷物搬送用のような大きなものと、人が5人ほど入れそうな小さなもの。1週間ほど前に、1Fのエレベーターホールで待っていると、管理人さんが「今小さい方が壊れているから、ちょっと時間がかかるかもしれない、ごめんね」と言ってきました。私は急いでいなかったので、別にいいですよーと答えたのですが、私の横で待っていたお兄さんが「え、俺の家15Fなんだけど歩いて上がった方が早いですかね?階段で行きます」とだけ言い残して去ろうとするのを、もうすぐエレベーターが来ることがわかったので管理人さんと二人して止めるということがありました。そのあと旦那が帰ってきた時にはエレベーターが動いていたそうなので、ロシアにしては仕事が速いなあ、と思っていました。

その5日後までは。

その日、スーパーでのお買い物を終えて、上へのエレベーターを待っていました。先に来たのは小さい方。なぜか急いでいたおばさんと二人で乗り込み、彼女が3Fで降りるのを見送った直後でした。ガンッと強い音がしてエレベーター内の電気が消え、止まってしまいました。すぐ照明はつきましたが、階数の表示は消えてしまいました。 こんな風に。

照明がついていたのが唯一の救いでしたが、もうパニックです。とりあえずエレベーター内のボタンを押してみるも全く反応しません。色の違うベルマークがついたボタンがあったので、とりあえず長押ししてみました。

「どうしましたか?」という声がどこからか聞こえてきます。しかし、パニックに陥った私はエレベーターという単語をど忘れして(正解は「リフト」です)、「助けてください」しか言えませんでした。向こうからも「もっと大きい声で話してください」とか他にも色々と言われましたが、スピーカーから聞こえる外国語ってなんであんなに理解できないのでしょう。結局一回スピーカーを切られてしまい、10分ほど立ってから(その間に文を脳内で作ってから)、もう一度ボタンを押しました。 最近「動作動詞」を勉強しているので、「動作」という単語はすぐ出てきました。そこで「エレベーターが動作しません。おそらく3Fか4Fあたりにいると思います。助けてください」と言ってみました。向こうからの返事は「普通に喋ってください」ええええ…。

それから20分くらい動かないエレベーターで待っていました。一度照明が消えて「もう助からないんだ…」と思うことがありつつも(短絡すぎる)、突然スピーカーからまた声が聞こえました。「あと少しで助けがいきますのでもう少し待っててくださいね」ついに!!!

そして本当に2、3分すると、エレベーターが下がり始めました。1Fについてドアが開きます。業者さんと管理人さんが「あ、一人乗ってたんだ」と言いました。え、私は誰と話してたの?しかも私がエレベーターから降りようとすると、業者さんに「いや、そのエレベーターで目的の階まで行って!」とまたエレベーターに押し込まれます。しかしボタンを押しても反応しないことを伝えると、やっともう1つの大きいエレベーターに乗ることを許可してくれました。

エレベーターに閉じ込められたのは人生初でしたが、ああ、もっとロシア語を勉強しなければと思わされました。慣れて油断した頃にトラブルが来るなあ。みなさんも気をつけてくださいね。

Пока!

にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
にほんブログ村

大祖国戦争中央博物館

Привет!

土曜日ですね!太陽が!!!出てきました!!!ということでお出かけにいきます!

その前に昨日の続きで、第二次世界大戦をテーマにした博物館のことを書こうと思います。入ってすぐは「対日本戦線」がテーマでしたが、そのあとは独ソ戦がテーマです。

ボロジノパノラマ博物館にもあったような、戦時中の様子を絵と模型で再現したコーナーがありました。 六つほどの小さな部屋に、それぞれロシア各地での戦いの様子がわかりやすく作られていました。写真はレニングラード(今のサンクト=ペテルブルク)。運河が多く、その分橋も多いこの街は見るとすぐにわかりました。これはレニングラード包囲戦の時のようです。後ろの絵の橋と、手前の模型がうまく繋がっていますね。

他にもモスクワや、ボルゴグラード(ここも戦時中かなりの被害を受けた街です)などがあり、その場にいるような感覚になります。 そのジオラマコーナーから、こんな大きな階段を上った先にあるのは、戦没者の名前を刻んだ、大きな円形の広間でした。

真っ白の壁一面に名前が刻まれています。天井についているのはCCCPと書かれたソ連のマークです。名前が刻まれている壁の上にはロシア各地の英雄都市の名前が。キエフもあり、ああこの時はソ連の一部だったのかと実感しました。

その広間の横に暗い煉瓦造りの街が再現されています。 なんと、当時のベルリンを1/1スケールで作られたもので、自分がその場を歩いているような錯覚に陥ります。
ソ連軍がベルリンを制圧した時のジオラマなので、元宮殿か元教会の柱の部分にロシア語で「ベルリンに着いたぞ」「私たちは今ベルリンだ」「45年5月11日」などの落書きとともに名前がこれでもかというくらい沢山書かれていました。これは…どういう気持ちで作ったんだろう。ファシズムに勝利したという喜び?それにしてはかなりひどく見えます。

そのまま歩き進めると、崩壊したベルリンの家屋に入ることができました。 この間まで使っていそうなおもちゃと壁に飾られた家族写真、止まった時計にピアノ…この家に住んでいた人たちはどこに行ったのか、そこまで想像してしまいます。そしてきわめつけは崩壊した壁の向こうに見える散らばった武器と鳴り止まない爆撃の音。ひたすら「怖い」という感情が心を占め、戦争をしたくない、あるいは「ここにいたくない」ということを強く感じました。悲惨な写真を見ると「戦争はひどい」と思いますが、自分が疑似体験すると他人事にはならなくなります。

そこを抜けると、先ほどのホールで何かの上演が始まっていたので、入って見ることにしました。 プロジェクションマッピングでソ連軍がどのようにファシズムと戦ってきたか、ドイツ軍はどんなに街を壊したか、そしてソ連は負けずに強かった、という内容が20分ほどフルCGで流されました。見終わったあと、周りでは拍手が起きていましたが、先ほどのベルリン市街を抜けた私と弟は拍手できませんでした。さっきから感情が揺れ動かされて、追いつけません。

このホールの周りには戦時中の武器や戦車、映像資料やプロパガンダポスターなど膨大な展示があります。そして端っこの方に日本との戦いのコーナーも。 ロシアの人たちはこの博物館へ来るとどんな気持ちになるのか、聞いて見たい気がしました。

この日は弟のロシア旅行最終日だったので、このあと空港へ送って行きました。時間が早かったのでケンタッキーで軽食を食べていると、おじいさん二人に相席をお願いされました。その人たちと色々と話していると、なんとそのうちの一人が中ソ戦で活躍した人だったようです。歴史に詳しい弟は聞いたことがあるという戦いの名前をあげていました。

当時はまだ生まれていませんが、実際こうやって経験した人から話が聞ける。歴史は立場によって語られ方が違いますが、だからこそ様々な立場からあの大きな戦争を、歴史を見てみることは大事なのではないかと強く思った日でした。

Пока!

にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
にほんブログ村

戦勝記念公園

Привет!

朝日が出るのは遅くなったし、そもそも最近は雨なので太陽が出ないし、ビタミンD不足を感じています。つまり、一日中眠いのです。ああ、この季節が来たんだなあ。

さて、初めて「大祖国戦争中央博物館」へ行ったのも、今日のような雨が降る中でした。何度か出て来ているように、大祖国戦争とは第二次世界大戦中の独ソ戦を指します。 場所は「戦勝記念公園(парк победы)」で、同名のメトロの駅から出ると目の前…ですが、公園自体がかなり広いので博物館に着くまでに10分以上かかりました。ずっと見えているのに!この公園は1995年5月9日、戦勝記念日の50周年に オープンしました。この場所はポクロンナヤの丘と呼ばれ、1812年の「祖国戦争」時にクトゥーゾフ将軍が燃やしたモスクワに入ったナポレオンがロシア側の使者を待ったところでもあります(結局使者の代わりに冬将軍が来て、ナポレオン軍は退却を余儀なくされました)。博物館を背にすると、この時の勝利を記念して作られた凱旋門を臨むことができます。この凱旋門の写真はこちらから。この記事は晴れている時だったので綺麗に見えます。

さて、雨がしとしと降る中、朝だったのでほとんど誰もいない公園を弟と二人で歩きました。 真ん中にそびえ立つオベリスクは141.8mもあります。この数字は大祖国戦争の五年間(1941年から1945年まで)の1418日間から来ているそうです。ついでに私は数えられなかったのですが、この公園内には同じ数の噴水が作られたのだとか。この国に暮らしていると、どれだけこの戦争がロシア人にとって重要な意味を持つ戦いだったかということがことあるごとに感じられます。

オベリスクの前に立つのは聖ゲオルギイが蛇を倒している像。サンクト=ペテルブルクにある青銅の騎士像も馬に乗ったピョートル大帝が蛇を踏んづけていますが、蛇は敵の象徴だそうです。

博物館までの道すがら、第1時世界大戦の英雄のモニュメントや、第二次世界大戦で活躍した陸海空軍の小部隊のモニュメントが並んでいたり、本当に戦勝記念のために作られたことがわかります。ちなみに博物館の奥には、戦争の犠牲者を祀った聖ゲオルギィ聖堂、モスク、ホロコースト博物館、戦車や兵器の屋外展示などがあるそうです。

そうこうするうちに、ようやく博物館にたどり着きました。外にあるチケット売り場でチケットを買い、中に入ると 初めから「対日本戦線」の展示でした。独ソ戦だけだと思っていたので、油断していた私にとってはなかなか厳しい内容でした。中国をはじめとしたアジアの国々との戦闘の様子が写真で展示されていたり、旧日本軍の軍服が置いてあったりします。圧倒的な数の国旗が日本を「敵」とみなし、同盟を組んだとして天井からつられていました。知ってはいたけれど、感覚としてはこの時に痛いほど戦時中の日本の立場を思い知らされて足がすくみそうでした。同時に自分が日本人だというアイデンティティも確認したように思います。

これは特別展なのか、常設展だったのかははっきりしませんでしたが、ここを抜けると「大祖国戦争」、独ソ戦の展示です。 こんなところを中心に、様々な展示がありましたが、それについては次の記事で。

Пока!

にほんブログ村 海外生活ブログ ロシア情報へ
にほんブログ村